ヨッヘン・リント



カール・ヨッヘン・リント(Karl Jochen Rindt 1942年4月18日生)
 [オーストリア・レーシングドライバー]


 ドイツのマインツで生まれたが、両親を第二次世界大戦のハンブルク空襲で失い、オーストリアの祖父母の下で育てられた。1961年にF1第6戦ドイツGPを観戦、そこでウォルフガング・フォン・トリップスの走りに魅せられ、レーサーになることを決意した。祖父母は、当初リントをレーサーにすることには反対であり、無理やり大学に入れたこともあった。しかしレースに熱中し学業には全く興味を持たない様子を見て、最終的には折れて反対しなくなったという。

 F2で活躍した後、1964年に地元の第7戦オーストリアGPでロブ・ウォーカー・レーシング・チームからブラバムを駆ってF1にスポット参戦。翌1965年からはクーパーで本格デビュー、2度の入賞を記録している。またこの年のル・マン24時間レースでは、マステン・グレゴリーと組んでフェラーリから参戦、優勝を果たしている。この頃、コンノートの元オーナーだったバーニー・エクレストンと知り合い、個人マネージャーを依頼する。ふたりは深い信頼で結ばれ、後にロータスF2チームを共同運営することになる。1966年は旧式のマセラティエンジンを搭載したマシンで好走。2位2回などでランキング3位を獲得し、将来のチャンピオン候補として注目される。しかし、1967年は10戦中4位入賞が2回のみ、他は全てリタイヤに終わった。1968年はブラバムへ移籍。全12戦中、予選で2度のポールポジション獲得と速さを見せ、決勝でも3位を2度獲得したが、他は全てリタイヤに終わる。このように速さは見せていたものの、その激しい走りから自身のミスやマシントラブルを多く招き、好成績をコンスタントに挙げることはできないでいた。

 1969年にはロータスに移籍。第9戦カナダGP終了時でポールポジションを4回、ファステストラップを2度記録していたが、優勝経験はないままだった。トップを走行しながらリタイヤしたレースも多かったことから、クリス・エイモン以上に「勝てそうで勝てないドライバー」として認識されていた。第10戦アメリカGPでは、シーズン5度目のポールポジションを獲得。決勝は一時ジャッキー・スチュワートの先行を許すも、その後トップに返り咲いて初優勝を達成し、「勝てそうで勝てない」の汚名を返上した。

 1970年にはグラハム・ヒルの移籍によりロータスのエースドライバーに昇格。斬新なウェッジシェイプボディをまとうロータス・72を得て、念願のチャンピオン獲得に向け快進撃を見せる。第3戦モナコGPではレース終盤に15秒先行するジャック・ブラバムを猛追し、ファイナルラップの最終コーナーで抜いて優勝するという歴史に残る大逆転劇を演じた。この周回で記録したファステストラップは自身の予選記録よりも2.7秒速く、ジャッキー・スチュワートのポールポジションタイムさえ0.8秒上回っていた。ブラバムが優勝すると思っていた競技長のポール・フレールはチェッカーフラッグを振り忘れた。リントは表彰式でモナコのロイヤルファミリーから祝福され、男泣きした。第5戦オランダGPでは親友ピアス・カレッジの事故死を乗り越え、ここから第8戦ドイツGPまで4連勝を記録した。イギリスGPではモナコGPを再現するように、最終ラップにガス欠を起こしたジャック・ブラバムをかわして優勝するというツキもあった。モンツァで行われる第10戦イタリアGPを迎えた時点で、計5勝を上げたリントはランキングで2位以下を大きく引き離し、残りの4レースどれかで優勝すればチャンピオンが決定するという状況だった。金曜日のプラクティスで、チャップマンとリントは空気抵抗を減らしトップスピードを上げるためウィングなしで走行することにした。リントのチームメートであったジョン・マイルスは、ウィングなしでの走行は「まっすぐに走らない」と不満を表していた。しかし、リントは「そのような問題はない」と報告した。チャップマンはリントがウィングなしだとストレートで800rpm速いと報告した。9月5日の予選走行中、リントの72は最終コーナー「パラボリカ」手前のブレーキングで突然姿勢を乱し、コースアウトしてノーズからガードレールに激突。リントは両足が見えるほどに大破したマシンの中で死亡した(ほぼ即死の状態であったという)。

 事故の原因は、ロータス72の特徴だったインボードブレーキのトルクロッド(制動力を車輪に伝達する棒)が折損したためと言われており、リントの運転ミスではないと見られている。むしろリントはマシンの問題点に気がついており、性能と危険性の狭間で苦悩していた可能性が高いという意見がある。マシンはパラボリカへのブレーキングで急激に左へ転回し、ほとんど最高速を保ったままコース外側の壁に激突しているが、これは右側のフロントブレーキが全く効かなくなった(トルクロッドが折れた)結果と言われる。

 リントは、身体が前方へ移動するのを防ぐベルトの付け心地を嫌っており、事故の際にも着けていなかったと言われている。そのため事故の衝撃で身体が車体前方へと一気に潜り込み、腰の部分にあるシートベルトのバックルが喉の位置まで来てしまった。バックルは金属製のため喉が切り裂かれてしまい、これが致命傷になったという。ベルトの圧迫で胸郭が破裂したことが死因という見方もある。事故の衝撃で車体前部がもぎ取られたため、潜り込んだ足が外部(前部)に露出する結果となった。この模様は映像として記録されており、事故の悲惨さを現在に伝えている。

 この時期は1968年のジム・クラークの死亡事故などをきっかけにフォーミュラカーにシートベルト装着が義務づけられたばかりで、リントはそれ以前までずっとベルトなしで走っていたため、ベルトで束縛されるのを嫌っていたという。また、当時のロータスには「速いが危険なマシン」を造るという噂が根強くあり、軽量化を優先するあまり各部の強度が足りない、あるいは信頼性に疑問のある新奇な機構を安易に採用する、などとよく言われていた。リント自身もロータスへの移籍が決まった際には「これで僕は事故死するか、チャンピオンになるかのどちらかだ」と冗談を飛ばしていたという。

 1969年のスペインGPでは高層式リアウィングの脱落によりロータスの2台ともがクラッシュし、続くモナコGPよりこの種のウィングが禁止されることになった。この事故でリントは顔を骨折し、その後も脳震盪の後遺症に悩まされた。リントはロータスの総帥コーリン・チャップマンに対し、マシン設計に疑念を感じている旨の手紙を送り、モータースポーツ誌上でも質問状を公開した。チャップマンは立腹し、リントとの関係はしばらく悪化した。リントは「次のレースまでに僕の身体を減量してくるので、その分だけ車体を補強しておいてほしい」と要請したが、チャップマンはそれに応えず、相変わらずギリギリの強度のマシンでレースに臨まなければならなかったという逸話もある。一説には事故で瀕死の状態のリントと病院に向かう際、チャップマンが「次のドライバーは誰にしようか」とつぶやいたという話もあり、チャップマンは人命を軽視していたのではないかという話も存在する。

 1970年9月5日死去(享年28)





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