コリン・マクレー



コリン・スティール・マクレー(Colin Steele McRae 1968年8月5日生)
 [イギリス・ラリードライバー]


 1986年からラリー参戦を開始。世界ラリー選手権初参戦は1987年のスウェディッシュ・ラリー。スバル=プロドライブに才能を見出され1991年に同チームに加入し、スバル・レガシィを駆って1991年・1992年の英国選手権を制覇。WRC参戦をはじめたばかりのスバルの若き期待の星として、しばしば目を見張るスピードを見せるものの派手なクラッシュも多く「マクラッシュ(壊し屋マクレー)」と称された。

 1993年のニュージーランドラリーで自身とスバルにとって初のWRC勝利を飾る。1995年にはイギリス人初、史上最年少でのドライバーズチャンピオンを獲得し、スバルも初のマニファクチャラーズタイトルを獲得する。1996年は3勝、1997年は5勝を上げ、スバルのマニファクチャラーズタイトル3連覇に貢献するも、ドライバー部門ではトミ・マキネンに次ぐランキング2位にとどまった。

 1999年シーズンから新鋭WRカー・フォード・フォーカスWRCを擁するフォードに移籍。マシン開発と並行しながらの参戦にあって時折勝利を飾るものの4年間の在籍期間でタイトル獲得はならず。ラリー史上最高額と言われる契約金がフォードワークスの財政事情に大きな負担となり、放出の最大の原因ともなった。2003年にはシトロエンから参戦したが、精彩を欠き、シーズン終了後に同チームのシートを失った。

 以降WRCへの参戦は実現していなかったが、2005年に入りシュコダとの接触が報じられ、9月のラリーGBと11月のラリー・オーストラリアでシュコダファビアWRCに乗りスポット参戦を果たした。オーストラリアではレグ3の午前中のサービスに入る時点まで3位を走行しており、コリン自身はもとよりシュコダ勢では久しぶりの表彰台が期待されたが、惜しくもマシントラブルでリタイアとなってしまった。

 2004年、2005年にはニッサンワークスチームからダカール・ラリー(通称パリダカ)に参戦した。時折好タイムをマークするなど健在ぶりを見せ付けるも、2004年は途中でマシントラブルに見舞われ順位を大幅に下げ、2005年は前半首位を快走していたものの突如横転しリタイア。もう一つの「らしさ」を見せてしまう。2005年限りで日産自動車がダカール・ラリーから撤退したため、以後は参加することはなかった。

 2006年にはXゲームズの新ステージ「ラリー」に出場。さすがの走りで終始トップ争いをしていたが、最終ステージのジャンプの着地に失敗し、転倒。それでもすぐに体勢を立て直し、左フロントタイヤがパンクしながらステージを走りきり、2位でフィニッシュした。2007年も引き続き出場したが、準決勝で2年連続の転倒を喫し敗退。

 2007年9月15日、自宅のあるラナーク周辺にて自身が操縦していた自家用ヘリが墜落し、39歳の若さで死去。このヘリにはコリンの他に5歳の長男ジョニー、ジョニーの遊び友達、マクレー家の友人のフランス人も同乗していたが、地元警察により全員の死亡が確認された。

 その死はいち早くインターネットで報じられ、モータースポーツ関係者には広い交友関係を持っていたこともあって、WRC関係者やファンのみならず世界中のモータースポーツに関わる人間に深い衝撃と悲しみを与えた。

 葬儀はマクレー家の強い要望により親族と友人のみで静かに営まれた。9月30日夕方にはラナークの聖ニコラス教会で関係者を招いた追悼式が行われ、続いて追悼パレードがラナークのメインストリートで行われた。沿道にはラナークの人口(約8500人)を超える21000人以上のファンが詰め掛け、通りには100台を超えるスバル・インプレッサが配置された。

 2007年9月15日死去(享年39)





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